自分が子供の頃、親のカメラを借りて都電荒川線の路面電車を撮りにいった記憶があります。
路面電車を見たのはそのときが初めてで、小さい車体でトコトコ走る姿は、国電(当時はほぼ103系のイメージ)とは異なる魅力を感じたのを覚えています。
確か、その頃の荒川線は、全て黄色の塗装で、赤帯の6000系と青帯の7000系が交互に走っていたように記憶しています。
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Museum of Chiba.train.net(仮想鉄道模型博物館)
会津鉄道6050系は東武鉄道・野岩鉄道の6050系完全新製車と同一設計の車両で、1990年の会津田島電化開業の際に1編成のみが製造されました。
東武鉄道の基本番台、野岩鉄道の100番台に対して、この1編成には200番台として区分されました。
1990年当初、民間私鉄の新造車(電車)のほとんどはチョッパ制御やVVVFインバータ制御車でしたが、輸送密度の低い会津鉄道線内では回生ブレーキの使用はその条件に向いておらず、6050系の既存車と仕様を合わせるために、 本車両も抵抗制御となりました。
書類上は、東武鉄道からの譲受車となっています。
この1編成は、会津鉄道が所有する唯一の電車で、東武鉄道・野岩鉄道の6050系と区別されずに完全な共通運用で使用されています。
鉄道コレクションでは、オープンパッケージで製品化されています。
↑ クモハ61201
↑ クハ62201
↑ クモハ61201 前面の様子
↑ クモハ61201 側面の様子 その1
↑ クモハ61201 側面の様子 その2
↑ クモハ61201 側面の様子 その3
↑ クハ62201 側面の様子 その1
↑ クハ62201 側面の様子 その2
↑ クハ62201 側面の様子 その3
↑ パンタグラフの様子
↑ 台車の様子
↑ クハ62201 運転台付近の様子
福塩線の電化区間(福山駅-府中駅間)では、1977年阪和線で運用されていたモハ70・クハ76形の各12両の計24両が鳳電車区から府中電車区に 転属となり、4両編成で1981年3月まで運用されていました。
鉄道駅-府中駅間)では、1977年阪和線で運用されていたモハ70・クハ76形の各12両の計24両が鳳電車区から府中電車区に 転属となり、4両編成で1981年3月まで運用されていました。
70系は製造開始以降、床面や屋根板、内装などに木材を使用した半鋼製車体でしたが、
鉄道コレクションで製品化された300番台は、1957年以降に登場した不燃化構造の全金属製車体で、80系300番台や72系920番台など同様のものでした。
シルヘッダーがなく、すっきりとした車体が特徴でした。
↑ クハ76307
↑ モハ70312
↑ モハ70314
↑ クハ76310
↑ クハ76307 前面の様子
↑ クハ76307 側面の様子 その1
↑ クハ76307 側面の様子 その2
↑ クハ76307 側面の様子 その3
↑ モハ70312 側面の様子 その1
↑ モハ70312 側面の様子 その2
↑ モハ70312 側面の様子 その3
↑ モハ70314 側面の様子 その1
↑ モハ70314 側面の様子 その2
↑ モハ70314 側面の様子 その3
↑ クハ76310 側面の様子 その1
↑ クハ76310 側面の様子 その2
↑ クハ76310 側面の様子 その3
↑ パンタグラフの様子 ※ゴム系ボンドがはみ出ていますがご愛敬。
↑ 台車の様子
↑ クハ76310 運転台付近の様子
新潟交通モワ51は、1933年の路線開業時(当時は新潟電鉄)に軌道線・鉄道線直通用として製造された貨物列車用の車両で、旅客用のモハ11形・クハ31形などとともに登場しました。
これは、貨物の輸送量が多く見込まれなかったため、電気機関車ではなく、貨物用の電車が増備されたもので、路線開業以降は、単独・又は国鉄から燕駅経由で直通してきた貨物を牽引するなどの形で、貨物列車として使用されました。
また、冬季には除雪用車両(キ1形やキ100形など)による除雪列車運転時の動力車としても使用されました。新潟交通では、1982年に貨物列車が廃止されましたが、それ以降も上記の除雪列車の動力車用として活躍しました。1999年に電車線が廃止されましたが、それ以降は月潟駅で保存されているそうです。
鉄道コレクションでは、第2弾でモデル化されていますが、実車では車体長が11m級であるのに対して、模型では12m級動力ユニットに合わせているので多少オーバースケールとなっています。
↑ モワ51
↑ パンタグラフ側前面の様子
↑ 側面の様子 その1
↑ 側面の様子 その2
↑ 側面の様子 その3
↑ パンタグラフの様子
↑ 台車の様子
↑ 反対側 運転台付近の様子
写真は本日の作業が完了した後の、勾配区間の最高地点の様子です。
走行するのは京成スカイライナー初代AE車。
実車では標準軌の京成の車両が国鉄形も走る狭軌の鉄道に乗り入れることはありませんが・・・
今回作業する前の様子で、レイアウト左端から右側を見た写真です。
勾配は手前から先に向かって高くなっています。
作業前の勾配区間最高地点の様子です。
側面は高低差が大きく傾斜面を作れませんので、山を切り出しで作ったというイメージで、ここには石垣を設けることにしました。
Gマックスの「石垣A」を購入しました。
3枚入りで、1枚のサイズは200mm×60mmです。
石垣の裏面には写真のように筋が入っていて、6枚に切断しやすくなっています。
今回が、半分に切って、200mm×30mmの石垣を3枚作りました。
現物合わせですが、石垣を貼る場所の形状の関係で、裏にある枠が邪魔となるものについては、枠をニッパーとカッターで削ってフラットにしました。
購買区間の側面に石垣を3枚並べて貼った写真です。
石垣が、まだ塗装もウェザリングもしていませんので、とりあえず両面テープで仮に貼り付けただけです。
貼った場所の高さは40mmなので、石垣の下10mmが空いてしまいましたが、ここには別の「壁」を貼って違和感のないようにするつもりです。
更に、厚さ3mmのスチレンボードで300mm×30mmの板を作り、石垣の脇に縦に並べて設置、タイトボンドで貼り付けました。
ところで、直線部分の傾斜面のパーツについて、前回の作業ではティッシュとボンド水溶液を使って凹凸面を埋めましたが、一週間放置して乾かしたところ、非常固く、軽量でしっかりとしたものになりました。
まだ不自然さが残りますが、このまま所定の場所に接着することにしました。
傾斜面パーツをタイトボンドでレイアウトに貼り付けたところです。
その右側に 仮設置していた10mm幅のスチレンボードも、同様にタイトボンドで貼り付けました。
さて、勾配区間の末端、高架線区間と接続する部分の面ですが、ここをどうするか考えなくてはなりません。
石垣Aの板から40mm×30mmのパーツを切り出し、縦の面に両面テープで貼りました。
その上の部分は奥行40mm分だけ発泡を削り、横にジオコレの「壁」を両面テープで貼っていますが、最終的にここはどうするか思案中です。
石垣を設置した手前に、30mm×65mmで切り出したスチレンボードの板を貼りました。
前回の作業では、曲線部分の傾斜面パーツは貼り合わせて3つにまとめました。
このうち2つのパーツについて、ティッシュとボンド水溶液で凹凸面を埋める作業を行いました。
ティッシュによる穴埋めを行ったパーツの写真です。
このまま乾くまで一週間放置します。
今回の作業はここまでです。
東武鉄道6000系は、日光線系統の快速・準急用として1964年に登場した車両で、1966年までに44両が製造されました。
車体は8000系をベースとし軽量化に配慮した全鋼製20m級ですが、優等列車で使用されることを考慮して片開き2扉のセミクロスシート車となりました。
日光・鬼怒川線の快速を中心に快速急行などにも用いられ活躍してきましたが、1986年の野岩鉄道乗り入れに向け、全車が6050系への車体更新を受けて6000系が消滅しました。
鉄道コレクションでは、事業者限定品として製品化されました。
↑ モハ6100形
↑ クハ6200形
↑ モハ6100 前面の様子
↑ モハ6100形 側面の様子 その1
↑ モハ6100 側面の様子 その2
↑ モハ6100 側面の様子 その3
↑ クハ6200 側面の様子 その1
↑ クハ6200 側面の様子 その2
↑ クハ6200 側面の様子 その3
↑ 台車の様子
↑ パンタグラフの様子
↑ クハ6200 運転台付近の様子
東京都交通局7000形は、路線縮小の中で荒川電車区に集められた旧7000形の車体更新車で、1978年に登場しました。
運転台マスコンなどの電装品、台車やブレーキなどの主要機器はすべて流用されましたが、車体はアルナ工機で新製され、車番は旧番号の若い順から付与されました。
新造車体は前面1枚窓・直線基調の軽快なデザインで、ホーム嵩上げによるステップ廃止、車内への車椅子スペース設置など、バリアフリーの対応が進められました。
1986年には車体の更新工事に合わせて冷房化工事や塗装変更、LED式車内旅客案内表示器の新設、集電装置のヒューゲルからパンタグラフへの換装などが行われました。
鉄道コレクションで製品化された7001は、2013年にツーマン時代の赤帯のリバイバル塗装で晩年運用されましたが、2017年に引退となりました。
↑ 7001号
↑ 前面の様子
↑ 側面の様子 その1
↑ 側面の様子 その2
↑ 側面の様子 その3
↑ パンタグラフの様子
↑ 反対側 運転台付近の様子